新しい店長
前店長がいなくなった翌日には、代わりの店長が来て、私たちに挨拶してくれました。人が良さそうな男性で、歳は前店長と同じぐらいでにこやかです。
奥さんも同伴で、朝食夕食はこの奥さんが作ってくれました。
どんな人が来るのか不安でしたが、毎朝従業員に缶コーヒーを奢ってくれたり、明らかに朝食が一品多かったりと、気前のいい優しい人と安心しました。
ですが、これが毎朝続くので、逆に心配になります。
だって、うちのような小さな店がそんなに儲けているはずはなく、毎朝の缶コーヒーはサービスしすぎだろうと新人の私にも気になってしまいます。
そして、本当にそれが原因かどうか不明ですが、その店長は2ヶ月で店を辞めてしまいました。
再び新しい店長が
その次に来た店長が、かなりクセの強い人で、新聞社から直接派遣された男性でした。歳は60過ぎで、これまでの店長より若いはずですが、容姿はもっとも年寄りのようです。
まずその新店長は、うちの専売所は赤字続きで問題が多い、いろいろ改革するので協力してくれが第一声。何をするのかわからないでいると、数日後に先輩の1人が退所することになりました。
その先輩も都内有名大学の2部に在籍していたのですが、ここからちょっと離れたところにあり、夕刊を配っていると授業に間に合わない。なので、朝刊を多く配るので、夕刊免除してほしいという条件で、この3年間やって来たのです。
しかし、新店長になってダメになったので、店を辞めることになったとのことでした。責任感が強く、私のような後輩にも親切にしてくれた方だったので、ショックでした。
休みは休刊日だけ
その先輩が抜けてから、店は人材不足。残っている3人と店長で、これまで6人でやっていた仕事をこなしていきます。今まで週に1回休めていたのが休みなし、休刊日だけとなりました。
休刊日とは、年に10日ほどある新聞発行自体お休みする日のことです。
今なら大問題となりますが、当時はしょうがないという気でやってました。
新聞配達の区域は、先輩がたが広くなり、私は当初から恵比寿と広尾と広めだったので、少しだけ拡張されただけで済みました。でも、当然ながら時間や移動距離は長くなり大変になっていきます。
台風の中で
そんな時です。台風がやって来ました。
深夜から風が強く、新聞を積んだトラックが、来るのが遅れて6時ごろから配り始めました。
前日、新聞の広告に、翌日は台風で配達が遅れるかもと入れていましたが、それでもなるべく早く配りたいのが本音です。なので、風が強まる中、自転車を漕いで配り始めました。
追い風になったらとても楽です。
心臓破りの長い坂も、ラッキーな追い風となって、一気に登れました。しかし、平坦な道路でも向かい風になるともう大変。自転車を降りて、新聞を飛ばないように抑えながら自転車を押していきます。
雨も横殴りです。私はカッパは着ませんし、傘なんてさしながら配達はできません。
カッパを着ない理由は、カッパを着ると汗だくになり、雨に濡れているのと大差がないので、それならシャワーでも浴びる気になって、どんな大雨でも濡れたまま配ってました。
身体中がずぶ濡れになり、袖からは雨の滴が滴りながらも、自転車を引きながら配っていますと、なぜこんなことをやっているのか不思議に思えてきます。
もっと他の選択はなかったかと。後悔しきりですが、若気の至りというやつでしょうか。
自分だけがこの困難な中にいると思い込み、回避方法を考えるのです。
しかし実際にそんな方法あるはずありません。
いや、厳密に言えば、大阪へ逃げたり、店を辞めたり幾つかの方法はあったかもしれませんが、自分が選んだ道だからそれらの方法を選択できなかったのです。
厳しい配達でした。一部ずつ強い風雨を掻き分けて配りました。とても辛かったですが、一部ずつでも配っていけば必ず終わりがあります。そう思いながら配っていました。
台風一過の空
新聞をすべて配り終えた頃、気がつくと雨がやみ、風も弱くなっていました。
空を見ると、朝焼けのオレンジ色が雲間からのぞいています。私は少しの間それを見て、早く戻って朝飯食おうと思いました。先ほどの逃げることなど、もう念頭にありません。能天気なのか忘れっぽいのか、都合のいい性格というのか。
ただし、あの時の朝焼けは30年近く経った今でも覚えています。
そして、私は晴れより曇りの方が好きで、この日のように、雲と雲の間から溢れるカーテンのような光や、覗ける青い空に希望を感じるからです。
ちなみに、朝食夕食は新店長が作ります。
朝食は、ご飯と味噌汁、納豆、鰯缶詰2切れ。以前はこれにニラ玉が付いてました。夕食はご飯とみそ汁、魚肉ソーセージと卵焼き。両食ともご飯味噌汁おかわり自由です。
朝食は必ず出ましたが、夕食は出ない時もありました。そんな時は、夕食代わりに500円をもらいました。
正月の配達
台風も大変でしたが、正月はいつものコースを2周しました。
正月の新聞は従来より分厚いんです。
まだ私たちの新聞はマシで、某有名新聞になると、その厚さは小冊子並みになり何度も専売所に戻らなくてはなりません。なので、車で随所に新聞の束を置いていくんです。私たちの専売所ではそこまではしなかったですが、それでもいつもより少ない部数を積み、配り終えたらまた戻って、残りを配りました。
朝食に雑煮は出ませんでしたね。
大雪での配達
さて、もう一つ忘れられないのが2月19日の大雪です。
東京で数十年ぶりに雪が積もった日で、場所によっては膝まで積もったところもありました。なので、初めて徒歩で新聞を配りました。
この日までは、私も雪が好きだったんです。
雪合戦や雪だるまなど。大阪出身なのでそこまで降らないんですが、降った時は大喜びでした。雪国の人が積雪時は大変だ、困ったとテレビで見ても半信半疑だったんです。この時までは。
雪はすでに止んでいましたが、暗い中に白く輝く一面の雪が非常に恐ろしかった。
まだこの時、映画『シャイニング』(キューブリック)を見てなかったですが、もし見ていたら背筋を凍らせていた事でしょう。自転車の車輪に雪が詰まり、回らず、乗ることができませんでしたが、それでも重い新聞の束を運ぶために必要なので引っ張りながら、新聞を配っていきました。
朝4時に配り始めて、終わったのは10時前。初めて学校を休んだ日でした。足腰がもうガクガクで、食事もせずに寝入った記憶があります。それでも、お客さんに新聞を配り終えた充実感がありました。
この充実感は、実は台風の中で配り切ったと言うだけでなく、私自身が初めて客を意識したものでもありました。半沢直樹流にいえば「仕事は客のためにするものだ!」と言う言葉につながります。そして、そのきっかけとなったのが正月の出来事ですが、それはまた後ほどお話しします。
アニメ専門学校は職業訓練校
私が通ったアニメの専門学校は、アニメーター科は2年ですが、私が入った制作科は1年。
原画、動画、仕上げ、背景、絵コンテ、脚本をひと通り学びましたが、実際には表面だけで、こうしてアニメは作るんだという知識を得ただけでした。
1年間の授業ならそんなものでしょう。
当時の私は、それでなんでもわかった気になってましたが、実際に仕事に就くとあまり役に立たなかったです。ですがこれはこれで、学校へ行った価値はありました。それは、この学校は職業訓練校のようなもので、アニメ界に入る登竜門だったのです。
この専門学校が職業訓練校というのは、1月以降、ほとんどの生徒は職場となるアニメ制作会社に内定を受けていて、学校には来なくなります。みんな早く仕事を覚えようと、生徒のままで制作会社の仕事をするようになります。
私も2月にはアニメの撮影スタジオに入りました。
当初は制作進行(この時の私はまだアニメファンの素人。制作進行の真実を知りませんでした)を目指していたんですが、運転免許を持ってなかったので入れなかったんです。今はどうか知りませんが、当時の制作進行は車かバイクを使えないと、深夜移動に必要な手段がなくなるので、内定がもらえませんでした。
私のアニメ界デビューは、また次のお話で。