いろいろな卒業時期
専門学校が1年で私の場合は終わるので、新聞奨学生も1年で辞めることに。
専売所内の先輩や後輩は、4年や3年続けて行く中で、1年だけとは非常に心苦しかったです。が、反面、新しい環境での暮らしと、憧れのアニメ制作の場に入る喜びがとても大きかったです。そして、真面目に努力を積み重ね、お客さんを感動させるようなアニメを作るんだと、半ば確信に近い思いがありました。きっと努力は報われるものだと、私は新聞配達で経験したつもりでいたんです。あることがきっかけで。
正月に起きたあることとは?
それはお正月の配達の時でした。
正月といっても別に何ってことはなく、いつもより配達が大変なことだけで、何もない普通の日でした。前日の31日も何もなかったんです。翌日に何か起きるなんて期待はありません。
もちろん、前年までは高校生の私ですから、31日には『紅白歌合戦』を見たり、正月にはお餅をいくつ食おうか、お年玉は誰からいくらぐらいもらえるから、何を買おうかなど楽しみもありましたが、この年の31日は夜8時には寝てました。仕事をしているので、お年玉もありません。
1日は3時ごろに起きて、4時に専売所に。いつもの3倍ぐらい膨れた新聞に広告を入れる作業も、いつもの3倍かけ、朝5時ぐらいから配り始めました。
天気も悪くなかったので、初日の出は恵比寿のあのマンションに配った時に見られるかな、そんなことをぼんやり考えながら配ってました。
恵比寿のとあるボロアパートに入った時です。
そこは独身の中年男性が住んでいる部屋で、正面の暗い階段を登って、すぐ手前のドアの前に新聞を置くのが日課です。
いつもこの部屋は配達ルートでは最初の方にあるので、その日も5時過ぎに入りました。ただ、いつもは暗い階段だったのに、その日は裸電球がともっていて違和感があり、部屋のドアからも早朝ながら灯りが漏れていました。
大晦日からずっとテレビでも見ているのかな、などと思いながら新聞をドアの前に置きますと、部屋の中から、
「あ、ちょっと待て!」
と、荒ぶった声で呼び止められました。
え、何だろう、何か問題でも? と、私は今まで話したことのない客に呼ばれ、軽くパニックになりました。今まで集金に訪れた時でも、ほとんど会話がなく普通に回収できた方です。
ドアの奥からドタドタ歩く音が聞こえ、私が硬直して無言で待ってますと、ドアが内側に開き、
「お疲れさん、はいこれ」
「は?」
「毎朝この時間に配ってくれて助かってるから、これ気持ちだ。今までは俺が家を出た後に新聞が入っていたから、すぐには読めなかったが、この時間にあれば電車の中まで持っていけるから」
そういって、白いポチ袋を私にくれたんです。
まったく予想もしなかったことなので、一瞬頭の中が白くなりましたが、断るのも失礼と思い、受け取って頭を下げながら礼を言うと、すぐにアパートを飛び出しました。
手が震えたポチ袋
ポチ袋をそのまま中も見ずにポケットに詰め込み、配達を続けました。
配達しながら、何度も先ほどのことが頭を駆け巡り、理由を考えてました。名前もよく知らない赤の他人からお年玉をもらうなんて、かえって怪しく感じます。
しかしその後も、独身男性のマンションでも呼び止められ、ポチ袋をもらいました。広尾では、老夫婦のお宅でもポチ袋をもらい、アパートの老紳士からは温かい缶コーヒーをもらいました。
案外正月の配達には余録があるんだなと、前年まで私と同じコースを配っていた先輩に話したところ、彼はびっくりした表情で、自分は6年やってきたが一度ももらったことがないと言いました。これには私も驚きです。
朝食が終わった後、自分の部屋に入って初めてポチ袋の中身を確認しました。もらったポチ袋は3枚。そして中身は、千円、千円、五百円。
この時ほど嬉しいお年玉はなかったです。思わず手が震えていました。
これまでくれていた親や親戚には申し訳ないけど。
前年までの私だったら、たった二千五百円っぽっちと、くれた親に対して逆に怒りを感じたことでしょう。でもこの年のお年玉は、金額ではなかったです。非常に嬉しかった。
後年、社会人になった私は少しの期間新聞を取っていたんですが、正月には配達の若い人に温かい缶コーヒーを渡しました。
さすがにポチ袋は、私にはキザに思え、あの人たちのようにすんなり渡せる自信がなく、できませんでした。その代わり、新聞配達でもっとも大変な作業である集金は、私自身が専売所まで毎回持っていきました。そうする人は珍しいらしく、店長さんに驚かれましたが、私が以前奨学生で集金に苦労したことを話すと、納得してビール券をサービスにくれました。
ちなみにあの時もらった二千五百円は、しばらくお守りがわりに持っていましたが、いつの間にか飲食代に消えていました。
お年玉をもらった後も、何か進展があったわけでもなく、これまで通り、なるべく時間通りに配ることにしていました。
あの後、同じコースを6年勤めていた先輩に直接聞いたり、他の先輩から話を聞いてみると、どうやら先輩は2年過ぎたあとは仕事に慣れて楽をし始め、寝坊して朝の7時ごろから配ることが多かったそうです。なので、客からの苦情もあったとか。私が配り終えるのが大体そのぐらいで、しかも休まず、時間に正確だったので、客からは喜んでもらえたのでしょう。先輩の話を聞いて納得しました。
終わりに
さて、新聞配達についてはこれで終わりです。
朝早く起きて、寒い思いしながら自転車で山あり谷ありの道を毎朝10キロ走る。重い荷物付きで。大変な仕事だったと思います。
しかし、人は慣れるもので、苦痛でも慣れてしまえばやれます。
私も2ヶ月やって慣れました。ただ、最初の1週間は慣れずに苦しく、食事は3日間口にできませんでした。4日目の朝起きると、体が動かず、特に足は重くて持ち上げる感覚で一歩を踏み出します。明らかにガス欠です。なので無理に食べるようにし、少しずつ慣れていきました。当時はたった1ヶ月で10キロ体重が落ちました。この時、人ってどんな環境でも慣れるんだと実感しました。
そして、時間を守ることの大切さも。
時間を守らないと言うことは、相手に迷惑をかけていることになる。たった数分遅れるだけでも、相手には電車やバスに乗り遅れるかもしれないのだから、少なくとも自分原因の時間遅れは無くしたいと思うようになりました。
それから数十年。
社会人になって久しくなった今でも、新しい仕事や困難な事情に直面した時、人は必ず慣れて苦痛ではなくなると思い、こなしています。
また、私はひどい方向音痴。初めて行く場所では迷って遅刻しがちなので、必ず前もってその場所に一度行くようにしています。そのため、一度も打ち合わせなどに遅刻したことはなく、東日本震災で都内の交通機関がストップした時も、休日ながら仕事の打ち合わせがあったのですが、時間内に相手企業を訪問して驚かれてしまいました。結果、相手の方が来れなくて、打ち合わせは後日となってしまいましたが。