「2020/12/読売新聞より」
弁護士会は8月、市への情報公開請求で各校の校則に関する資料を入手し、調査した。その結果、「下着の色を白などに指定」57校、「性別によって、どの標準服(制服)を着るかを事実上決めている」50校、「側頭部を短く刈り上げるツーブロックなどの髪形を禁止」62校、「眉毛に手を加えることを規制」56校だった。
また、生徒や保護者、教職員計十数人に不合理な校則や指導を受けた経験などを聞き取った。▽違反した下着を学校で脱がせる▽廊下で一列に並ばされ、シャツの胸を開けて下着をチェックされる▽体育館で男子がいるのに下着の色をチェックされる▽白い靴下に縦に折り目が入っていなければならない▽靴下の点検で右足合格、左足不合格と言われ、買い替えを指導された▽職員室の前は無言通行▽眉毛をそったら、集会などで眉を太く書かれる――といった訴えがあった。
私の中学校では
30年も前の話なので、現在とは大きく変わると思いますが、上記の記事を読んで感じたことをお話しします。
私の中学にもいろいろ校則がありました。それに反発することで、校内暴力がおきました。
特に大荒れになったのは、私たちが中学校に入った途端、男子は全員5分狩りにすることが、校則に付け加えられました。思春期のこれから微妙になる時期に、男は全員丸坊主。女子はよく覚えてないですが、多分オカッパだったと思います。
言っときますが、戦前のことではありません。昭和の後期のことです。
これを境に、今まで問題がなかった中学校は大荒れに荒れました。
『金八先生』をリアルに体感
1階の窓ガラスが全部割られたり、タバコやシンナーの残骸が、日常的に廊下に散らばるようになりました。
髪を金に染めたり、学生服の裏地に刺繍を入れるのが流行ったりとかしたのも、この頃。ズボンがブカブカに改造され、女子のスカートは今と正反対に長くなりました。学生カバンは、ぺったんこにすることがカッコいいそうです。
もちろん先生は実力行使で、それらを止めようとしますが、生徒側はまったく聞き入れません。毎日、男先生と生徒の暴力まがいのいざこざがあり、授業は何度も自習になりました。大阪の新聞にも何度か事件として取り上げられたようです。
男子の頭髪の指定は、今思えば全国的なのではと思います。多分国の方針だったかもしれません。なぜなら、こうして荒れたのは、全国的な風潮でしたから。
『金八先生』で時々荒れた学校のシーンがありますが、「あったあったこういうの」「これはなかったな」なんて思いながら、笑って見てました。ただこれは、すでに中学を卒業して数年経った頃に思ったことで、当時の私は、とばっちりがこちらに来ないよう、周囲に気を配りながら学校に来ていたと思います。
番長の存在
私の中学には、『番長』と言葉にはされていませんでしたが、それに近い伝説的な人がいました。
例えば、隣の中学の番長と喧嘩して勝ったとか、ヤクザと殴り合ったとか。たった一人で10人と戦って勝ったという話までありました。
実際、学校内の不良たちはいつも『番長』の周りに集まっていて、カツアゲなどで集めた小銭を上納しているようでした。先生も彼のことは特に注視しています。
そんな『番長』ですが、実は私と同じ小学校。
小学6年生の時、喧嘩して負けて大泣きしたところを見ているので、数々の伝説が眉唾なのを知っていました。
というのは、彼が喧嘩した相手は私の友人でした。I君とします。
どんな諍いがあったかは忘れましたが、I君と『番長』は喧嘩となり、わずか数秒でI君の蹴りが腹部にヒット。苦しさと痛みとで、『番長』はうずくまりながらワンワン泣き出したのでした。
それを見ていたのは私だけです。
I君というのは、本当にいいやつで、私のような弱い奴にも優しく、親切な子供でした。本来喧嘩などするような子ではないのですが、あの時の『番長』との喧嘩は余裕で勝利したかと思います。
小学生の喧嘩と、中学生時代の抗争と同類にはできないですが、I君には本来『番長』と呼ばれて相応しい風格と強さ、優しさがあったんです。
ちょうど思い出したので、もう少しI君の話を。
多分I君は、お母さんの影響が強かったと思います。
兄弟は、幼い妹と弟がいて、私と遊ぶときはみんなで鬼ごっこや、近くの公園でブランコなどで楽しみました。兄弟からはかなり親しまれたようで、彼の自宅周辺で遊ぶ時は、いつも妹と弟がそばにいた記憶があります。
時々、妹たちがつまずいて泣いて家に帰ることがあり、そんな時はお母さんが大声で、
「何泣かしてるんや!」
と一喝後、I君にゲンコツをお見舞いしていました。今なら問題ですが。
I君はゲンコツを受けても笑っています。
本来は、怖いお母さんというわけでなく、いつもはにこやかで、普通に話す時も大声で多弁でした。「大阪のおばちゃん」そのものです。
ときには、焼き芋やアイスクリームなどを私にも振る舞ってくれました。
あのお母さんのゲンコツを受けて笑っていられるんだから、同級生からのパンチなんて、痛くも痒くもなかったでしょうね。
そのI君は、中学に上がる直前に残念ながら引っ越していきました。
もしI君が中学にいたなら、これほど大きな校内暴力にはならなかったのにと、当時の私は何度も考えたものでした。
驚きの卒業式
さて、私が中学3年の卒業式の時です。
俗に言う「ワル」と先生に目をつけられている生徒は、大体3年生なので、みんな卒業して明日からはまた静かな中学校に戻りそうです。
ちなみに『番長』は、学校には来てません。
引っ越したとの話もなく、逮捕されたんじゃないかと噂になってました。
式が行われる体育館では、卒業生が整列し、不良と呼ばれる人は体育館外や、隅で集まっていて整列には加わりません。何か式中に騒ぎたいとウズウズしている感が見て取れました。
もちろん男先生は、彼らに整列に加わるよう説得しますが、それで聞くようなら学校がこんなに荒れることはありません。
そして実際に卒業式が始まった時、静かな館内からどよめきが起きました。
それは、久しぶりに校長先生が登壇したときのことです。
当時、校長は姿を、ここしばらく見せてなかったんです。生徒間では病気かもとの話がありました。
久しぶりだなと思いながら校長を見ると、何と頭の毛が真っ白になっているではないですか。
少なくとも、2学期にはまだ頭髪は黒かったと思います。よくドラマなんかに、恐怖で一瞬のうちに白髪になるとか、苦労すると白髪が増えると聞きますが、まさにその通り。教師以外は、父兄も含めてみんなざわついてました。
『桃李成蹊』とは?
その時の校長の言葉が、30年過ぎた今でも忘れられないですね。
「桃の木は、人が道を作らなくても自然に人が通うので道ができる。卒業生も、自分を誇張するのではなく、自然に人が寄ってくるような人望を持つ人になってほしい。これを『桃李成蹊』という」
桃李成蹊という言葉、今なら知っている人も多いのではないでしょうか。あのイケメン俳優『松坂桃李』さんの名前の由来になった言葉です。司馬遷の史記にある言葉です。
30年も前に聞いたこの話は、多感な少年だった私の心に突き刺さり、今でも座右の銘であります。まだ私は桃の木に至りませんが、いずれは実をならせて旅人の喉を潤したいと思っています。
校則に対抗するには
さて、多少脱線しましたが、何が言いたいのかというと、校則が嫌なら戦いましょうということです。別に殴り合いをしろというのではなく、ちゃんと抗議し、生徒側の意見と代案を出して、先生たちと議論で戦いましょう。
先生たちも、学校を生徒のためによりよくしたいと思っています。悩み苦しんでいます。なので、この校則ではこういう面がマイナスであり、こうした方が効果が出やすいなどの話し合いに持っていきましょう。
また、親を巻き込みましょう。味方にすれば最良です。
校則が嫌だから守らないでは、先生や親にケンカを売るような真似ですし、学校側により強固な校則で縛られる可能性があり、得策とは言えません。うまく先生を乗せ、生徒のために校則を変えてやろうかと思わせましょう。
先生は内心、生徒が怖いと思っているはずです。だって、生徒が注目する先生は、担任含め1人か2人程度。しかし先生は数十人に対して注目しなければならず、それは大変なことでしょう。誰が何を考えているかなんて、おおよそはわかっても、把握するまでには至りません。
日本人大人の真実
それと、大人は確かに子供より経験値があり、責任も少なからず持っているので、子供からみれば威厳などを感じてしまい、「偉い」存在のように感じますが、実際の中身はまだ子供の人ばかり。
飲酒運転で事故して逃亡したり、ギャンブルで首が回らなくなったり、空き巣に入ったり、強盗したり、詐欺をしたり。
朝のラッシュ時に人ごみの中、何も考えずスマホを見ながらうろうろして迷惑なやつ(最近こんなおっさんが増えてきて、背後から蹴飛ばしたくなる)。
これ、ほとんど『大人』と呼ばれる人たちの所業です。
特に歳をとるほど顕著で、多くの日本人大人には子供っぽさが抜けきれていません。誰から見ても「おじさん」と呼ばれる私がいうのだから嘘ではありません。
あなたが同級生から批判されて気を落とすように、子供からでも正論で反発されて動じない大人はいないのです。
若さを武器に、正々堂々言葉で戦いましょう。
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