【体験記11】転職サイトにもない職業体験(編集プロ編Ⅰ)

taiken
今さらですが、人物、企業、組織の特定を防ぐため、ある程度のフィクションが入ってます。ご了承ください。

アニメ界から出版界へ

 いきなりですが、結果だけ言いますと、私は20年近く編集プロダクションに所属していました。

 制作進行を目指して上京してきた私です。
その為に新聞配達まで体験してきましたが、結果的には脚本を書くのをやめて、ゲームやアニメの雑誌や単行本を制作する、編集者兼ライターとなったわけです。

 今からその流れを書いていきます。

アニメ界への不安

 前回、コンピュータパーツの倉庫でバイトしていたと書きましたが、そこで念願の運転免許を取り、これでようやくアニメ界に戻って活躍できると考えていました。

 が、反面、以前のアニメ撮影会社のように、あまりやりがいのないものだったらどうしようか、不安でもあったんです。

 当時、2年ほどの短期間でしたがアニメ業界で働いていたとき、感じたのはアニメ制作愛がかなり強くないと、仕事は続けられないということでした。制作進行をしていた先輩が、体を壊したという話も脳内から消えていません。
10万そこそこの給料で、徹夜もありの長時間作業は、強い意欲がなければ続きません。果たして私にそこまでの意欲があったかどうか。

 もちろん、将来宮崎アニメや押井守アニメ(この頃庵野さんはまだ、ナウシカで動画描いていた頃で、一般的には無名でした)を俺は超えてやると、意欲はあったのですが、自信を持てるようなものはありません。
絵は描けないし、面白いストーリーも思い浮かばない。

 若さゆえ、とりあえず突っ走ることが正義との思いで、初志貫徹で進んでいるだけでした。

 今思えば、ずっと将来に不安でした。

なかなか前進できない日々

 憧れはありましたが、人生を共にするような愛があるかどうかは、アニメ撮影会社ではわかりませんでした。なので、しばらく人生を迷走することになります。

 とりあえず、コンピュータパーツ倉庫のバイトしながら、アニメ制作会社への再就職先を探しました。

 当時の就職情報といえば、フロムエーという雑誌ぐらい。今のようなネットなんてなかったから、1ヶ月ぐらいは情報誌を読んで探しました。

 ところが、探し方が悪いのか、アニメ制作会社の募集が、まったくありません。

 1ヶ月2ヶ月と期待して探しましたが、アニメのバイトさえ募集がなかった。

 また撮影か、仕上げに戻ろうかと考えるほどでした。でも、それさえ募集がなかったんです。

 理由は、当時のアニメ制作会社が、社員を重視していて、アルバイト情報誌には募集が少なかったのではと思っています。多分ハローワークに行けば募集があったかもですが、当時の私には訪問することなど念頭にもなかったです。当時は職業安定所と言っていて、印象が悪かったですから。

 それに、以前も書きましたが、アニメ専門学校は業界の入口でした。そこからアニメ制作会社に入っていく人も多かったでしょう。

 現在のような人材派遣会社による派遣社員という、企業にとっては便利な人材募集もありません。私には、このまま倉庫内バイトを続けて、アニメ制作会社の情報を待つか、他の職種につくかの選択に迫られました。

 いくら若いと言っても、このままでは時間がもったいない。倉庫内バイトは気楽で、スタッフの方々とも良好な関係でしたが、さすがにバイトを何年も続けるのは無理と考えていました。結局、昭和の人間は、社員になって一人前という気持ちが根強かったのだと思います。

ふと目に入った募集記事

 そんな時、求人情報誌の1つの募集記事が目に入ってきました。

 アニメ制作会社の求人を探していましたが、その中に『編集プロダクション』『本を作ってみませんか』と言う記事があったんです。

 私としては、絵も描けない人間がアニメで活躍するには、絵コンテか脚本で頑張るしかない。それで、専門学校の授業で少しだけ脚本も書いた。だったら、文章や本に関する仕事をしてみるのもいいのでは。

 慣れてきた頃に、アニメ制作会社に変わってもまだ大丈夫だろう。

 などと、気軽に考えて応募したのです。

 まさかこれが、私の本業になるとは思いませんでした。

 もし同時期にアニメ関連の会社の募集があれば、そこを応募し、おそらく制作進行をやっていたと思います。もちろんその後はどうなっていたか、すぐにやめていたかも知れないし、数十年続けていたかも。

 人生の分かれ道って、思ってもいないところにあったわけです。

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