アニメ界から出版界へ
いきなりですが、結果だけ言いますと、私は20年近く編集プロダクションに所属していました。
制作進行を目指して上京してきた私です。
その為に新聞配達まで体験してきましたが、結果的には脚本を書くのをやめて、ゲームやアニメの雑誌や単行本を制作する、編集者兼ライターとなったわけです。
今からその流れを書いていきます。
アニメ界への不安
前回、コンピュータパーツの倉庫でバイトしていたと書きましたが、そこで念願の運転免許を取り、これでようやくアニメ界に戻って活躍できると考えていました。
が、反面、以前のアニメ撮影会社のように、あまりやりがいのないものだったらどうしようか、不安でもあったんです。
当時、2年ほどの短期間でしたがアニメ業界で働いていたとき、感じたのはアニメ制作愛がかなり強くないと、仕事は続けられないということでした。制作進行をしていた先輩が、体を壊したという話も脳内から消えていません。
10万そこそこの給料で、徹夜もありの長時間作業は、強い意欲がなければ続きません。果たして私にそこまでの意欲があったかどうか。
もちろん、将来宮崎アニメや押井守アニメ(この頃庵野さんはまだ、ナウシカで動画描いていた頃で、一般的には無名でした)を俺は超えてやると、意欲はあったのですが、自信を持てるようなものはありません。
絵は描けないし、面白いストーリーも思い浮かばない。
若さゆえ、とりあえず突っ走ることが正義との思いで、初志貫徹で進んでいるだけでした。
今思えば、ずっと将来に不安でした。
なかなか前進できない日々
憧れはありましたが、人生を共にするような愛があるかどうかは、アニメ撮影会社ではわかりませんでした。なので、しばらく人生を迷走することになります。
とりあえず、コンピュータパーツ倉庫のバイトしながら、アニメ制作会社への再就職先を探しました。
当時の就職情報といえば、フロムエーという雑誌ぐらい。今のようなネットなんてなかったから、1ヶ月ぐらいは情報誌を読んで探しました。
ところが、探し方が悪いのか、アニメ制作会社の募集が、まったくありません。
1ヶ月2ヶ月と期待して探しましたが、アニメのバイトさえ募集がなかった。
また撮影か、仕上げに戻ろうかと考えるほどでした。でも、それさえ募集がなかったんです。
理由は、当時のアニメ制作会社が、社員を重視していて、アルバイト情報誌には募集が少なかったのではと思っています。多分ハローワークに行けば募集があったかもですが、当時の私には訪問することなど念頭にもなかったです。当時は職業安定所と言っていて、印象が悪かったですから。
それに、以前も書きましたが、アニメ専門学校は業界の入口でした。そこからアニメ制作会社に入っていく人も多かったでしょう。
現在のような人材派遣会社による派遣社員という、企業にとっては便利な人材募集もありません。私には、このまま倉庫内バイトを続けて、アニメ制作会社の情報を待つか、他の職種につくかの選択に迫られました。
いくら若いと言っても、このままでは時間がもったいない。倉庫内バイトは気楽で、スタッフの方々とも良好な関係でしたが、さすがにバイトを何年も続けるのは無理と考えていました。結局、昭和の人間は、社員になって一人前という気持ちが根強かったのだと思います。
ふと目に入った募集記事
そんな時、求人情報誌の1つの募集記事が目に入ってきました。
アニメ制作会社の求人を探していましたが、その中に『編集プロダクション』『本を作ってみませんか』と言う記事があったんです。
私としては、絵も描けない人間がアニメで活躍するには、絵コンテか脚本で頑張るしかない。それで、専門学校の授業で少しだけ脚本も書いた。だったら、文章や本に関する仕事をしてみるのもいいのでは。
慣れてきた頃に、アニメ制作会社に変わってもまだ大丈夫だろう。
などと、気軽に考えて応募したのです。
まさかこれが、私の本業になるとは思いませんでした。
もし同時期にアニメ関連の会社の募集があれば、そこを応募し、おそらく制作進行をやっていたと思います。もちろんその後はどうなっていたか、すぐにやめていたかも知れないし、数十年続けていたかも。
人生の分かれ道って、思ってもいないところにあったわけです。