アニメ撮影会社編
当時のアニメ業界を少しお話しします。
と言っても、私自身長くいなかったし、一端しか体験してないのであまり参考にならないですが。
前回、私がアニメの専門学校に通っていたことはお話ししました。その頃のことをもう少し追加します。
私は1年制の制作課に入ってました。1クラスのみで40人ぐらいいました。
多くは制作進行希望で、行く末はアニメの監督や脚本、演出家を目指していたんです。
私も脚本書ければなと思ってましたが、周りの人はすごい人ばかりで、正直この時から夢の実現は難しいなと思っていました。だって、私はこの学校で脚本や絵コンテを学ぶつもりだったのに、周りの人はすでにある程度独学でやれていたんです。気構えが違ってましたね。
たとえばAさん。すでに30歳近くの一般企業で働く社会人でしたが、アニメ制作の夢が捨て切れず、会社を辞めてこの学校に入ってきました。驚くことに、絵が上手く、素人の私から見てもすぐにアニメーターになれそうです。脚本も面白く、絵コンテなんか漫画を読んでいるようで、クラスで一番の実力者でしたね。
当時、教本のように教室の書架に、宮崎駿監督の書いた『風の谷のナウシカ』絵コンテ(コピー版)がありましたが、それより面白かったといえば、その実力は測れるかと思います。
ですが、Aさんは半年ぐらいで学校には来なくなりました。
辞めたわけではなく、某有名アニメ制作会社に入ったようでした。実力のある人は、消えるのも早いんです。
また、某有名アニメーターの手伝いを、バイトでしていると言っていたB君。
先生の授業をずっとバカにし、不貞腐れて授業を聞いている男でしたが、私とはアニメ談義でよく盛り上がってました。
そのB君が放課後、怒りながら教室に入り、私の前で、
「もうバカらしいから、学校をやめた」
というので、私は、
「まだ半年あるじゃない。どうしたの」
「先生に学校に来るなと言われた。別にこんなところどうだっていいけどさ。俺、以前から○○さん(某有名アニメーター)から誘われてたから、そっちに行くわ」
と言って、翌日からは来ませんでした。
専門学校には職業訓練校としての役割があったので、途中から就職していなくなることは特別なことではありませんでした。
懐かしき石黒昇監督
私がアニメ関連会社に内定をもらい、学校に行かなくなったのは、卒業直前の2月ぐらいでした。その頃、まだ教室にいた生徒は10人程度で、自分の実力が測られます。
でも私にも見せ場はありました。
石黒教室の1人になったことです。
石黒先生のことは、若い人は知らないでしょうが、『宇宙戦艦ヤマト』の演出家、『超時空要塞マクロス』の生みの親で監督の、当時有名だった石黒昇さんのことです。
石黒さんは本校の特別講師の一人でした。
その方が、学校内の希望生徒にショートストーリーを書かせて、良かった生徒を選抜して特別教室を開きました。およそ10人前後でしたが、私もそこに選ばれたのです。
非常に嬉しかったのですが、悲しいことに、当時の私は新聞奨学生だったので、ちょうど夕刊を配る時間と重なり、参加できたのは2回ぐらいでした。
教室といっても、軽く飲み食いしながらアニメや物語について談笑するもので、石黒さんはよくしゃべり、周りを圧倒してました。
『ヤマト』『マクロス』の制作秘話や、その後のマクロスシリーズがどうやって作られたかなど、ファンなら価値ある話がボロボロ出てきます。私もずっと参加したかったなと、悔いが残っています。
学校の卒業式には、首席生徒として石黒教室にいたC君が表彰されました。制作課の青年で、何事にも積極的だったなと今なら思います。
ちなみに、私が石黒教室向けに書いたショートストーリーは、猫が気まぐれにした行動が、ご主人の危機を偶然救うというものでした。詳しい内容は覚えてません。これを石黒さんは、
「猫の習性をよく考えられていて、実に面白い」
と誉めてくれたのは、非常に嬉しかったですね。
アニメの撮影会社に入社
さて、2月に入って私は大田区にあるアニメの撮影会社に入りました。
まだ学校に在籍していましたが、授業には出ず、ずっと仕事を手伝ってました。学校に顔を出したのは、卒業式だけです。
撮影会社は、アニメ専門学校の先生が社長をしている会社で、メインは某有名アニメの撮影をしていました。
日本人なら誰でも1度は見たことのある作品で、私もそれを聞いた時、胸が高まりました。
ただ実際に会社に来てみると民家を改装したような作りで、一応3階建でしたが、かなり年季が入ってます。
壁には草蔓が全体的に絡まっていて、不気味さも演出しています。1階が撮影スタジオなので、窓は黒いカーテンで覆われてました。
日本でもっとも有名なアニメの撮影スタジオですから、近代的な10階建ビルぐらいかと思っていたのですが、驚きでした。
その会社では、撮影以外にアニメに色を塗る「仕上げ」という作業も行います。あと、セル画へのペン入れも。
当時のアニメ制作
ここで少し、当時のアニメ制作の段階を説明させていただきます。
アニメの監督や演出家、脚本などの進行は、私は経験がないので書けません。学校の授業とは別物なので。したがって、絵を描くアニメーターからお話します。
もう20年以上前のことなので、現在とは大きく変わっているかと思いますが、昔はこんな感じだったのかと歴史を学ぶ感じで読んでください。
さて、監督などから指示を受け、さまざまなアクションの始まりと終わりを描くのがアニメーターの原画マンです。アニメーターでも比較的ベテランの人が描いています。そして、アクションの始まりと終わりの間の動きを描くのが、動画マンと呼ばれました。若い人がよく描いてましたが、長いシーンはベテランが描くことが多かったです。
原画、動画は線(線画)のみを紙に書くのですが、そこからセルに書き起こします。セルとは透明のシートのことで、カーボン紙と原画の紙、セルを機械(名前忘れました)にかけることで、紙の線画がセルに移るんです。ただ、機械のすることなので、キレイにすべての線が移るわけでなく、ペンで修正したり、汚れなどは丁寧に1枚づつ拭き取っていました。
そして、セルに描かれた線画に、ぬり絵のように色を塗って行くことを「仕上げ」と言い、色を塗り終えた状態が『セル画』です。
以前なら、有名アニメのセル画はプレミア価格で売買されましたが、今は仕上げ作業もパソコンなので、セル画の時代では無くなってしまいました。
アニメ撮影の仕事とは、そのセル画と、画用紙に書かれた背景を組み合わせ、1コマずつ映画撮影用カメラで撮っていく作業です。
アニメは1秒間に24コマの絵をパラパラ漫画のように流すことで、動きが表現されます。なので、数百枚撮影しても、実際には数秒のシーンしか撮れてないということになり、時間のかかる作業でした。
アニメーターも、手書きで書いていきます。30分アニメだったら、数千枚から数万枚書きました。実際に書く絵は動く部分、例えばセリフを語る場面では口が動くだけなので、口パクのパターンを描くだけでいいですが、全身が動いているようなカットなら、それこそ数百枚の全身を描きます。
大友克洋監督の『AKIRA』、『Zガンダム』のop、宮崎駿監督全般など、アニメ界に入ったばかりの私には、絶句ものでした。